先日、長い間逢っていなかった友と語らいました。
10代の多感な時に『許しとは何か』を考えて、共に悩んでた信仰の友、なんであります。
逢って話すのは、20数年ぶり。
新年の挨拶はメールでしていた位で、
互いに仕事に忙しくしてた。
彼は相変わらず、優しい、いい人。
数年前に、自ら会社を立ち上げて大活躍。
そんな彼の半生は、愛と奇跡に満ちていて、実に感動的なんでありました。
彼の、何気ない優しさが凍みました。。
あぁ私だって優しい人になりたかったな~
若い時には確かにそう願ってた。
でも途中で、私にゃ無理だわと悟ってしまいました…
私ががんばって優しい人になろうとすると
色々と無理が生じてしまうのだもの..。
↑そう、<頑張る>が入ってしまう。
優しい人には無理がない、実に自然体。
だから彼に『本当に優しいのね~』と言うと
『そうかなぁ~?』と涼しく笑ってる。
やっぱり私には愛がないよな…とは感じたけど、ふと、
あぁ私は愛を受け取る側なんだと気付く。。
なんだか大きな発見でした
きっとこの世には神様が決めた配役があるのだろうと思う。
優しい人、繊細な人、ユニークな人、皮肉屋、おおらかな人、大胆な人、キザな人、野心家、情熱家…まだまだ一杯。
色々なキャストが必要なのだから。
私は何だろう…
正直に生きること?
あぁ、私だって優しい人になりたかった!
愛のある人になりたかった!
でも、これでいい!
優しい人じゃなくてもいい!
優しく出来ない人でもいい!
優しさを受け取る役でいい!
今はそう思っています。
でも、その優しさを感じ取れる私にも、
少しは愛はあるのじゃないかな、なんて
自分で自分を慰めてみる…
そうか!モノの本にはよく、なりたいものになったつもりで先に行動せよ、とある。
よしっ、
私も優しい人になったつもりで、
まずは自分と周りから、少しずつ愛で満たして行こうか..
平和な代々木公園で、そんな事を思いました。

そして、実に色々な人がいた…

愛がなければどんな行為も虚しい。。