一昨日は
久保田万太郎戯曲『冬ざれ』
の勉強会、第三回目。
なんとか形になって来ました。
前回の勉強会で
演出の中村哮夫先生からは
『うまく仕上がれば、5月の
《春燈の会》で発表出来るように
主催者に掛け合ってみるが、
今の状況ではハーフハーフだな..』
と言われて臨んだ三回目、
結果は…
まぁよし、とのことで、
春燈の会で朗読上演が決まりました❗
やった~~o(〃^▽^〃)o
ええ、
嬉しいんですが、反面
なんかスゴイ事になっちゃったなあ、
と…
だってその会は
久保田万太郎研究会、
そのものなんですから……💦
でも、勉強する毎に
万太郎戯曲がどんどん好きになり、
魅力がより染みてきます。
評論家の渡辺保さんの文章に
その真髄がありましたので
ご紹介させて頂きます。
(ほんの一部分で、しかも
私流のまとめ方ですが、)
~もう1つの方法論~
なぜ今の役者は
久保田戯曲の台詞が
しゃべれないのか。
それは方法論を
なくしてしまったからである。
久保田戯曲は舞台そのものが
一見リアルに見えて実は
念入りに作られた虚構である。
むろん芝居はみな
虚構には違いないのだが、
中でも久保田戯曲は
日常語を使いながら
抽象的かつ記号的かつ詩的
な性格を強く持っている。
こういう抽象的な言語に
リアリティーを持たせるのは
様式的な古典劇ならばともかく
現代劇では非常に難しい。
では文学座や新派の俳優達は
どうしたのか?
~虚構を虚構として
作者独自のリズムを
身につけていったのである。
というより
台詞を生きたと言った方がよいだろう。
ある意味で人間の内面とは
全く別な次元に存在するモノ
としての言葉。
その台詞を扱う術を
心得ていたのだ。
どこか硬質で異質。
空間を切り裂く様に、
空間に言葉を刻んだのだ。
…もっともこの方法論が
久保田戯曲を上演するだけの
ものではなく、
これがあったから
文学座の俳優は
三島由紀夫や別役実を
演じることが出来たのであるし、
新派の俳優は
泉鏡花や永井荷風が出来たのだ。
以上の作家はいずれも
リアリズムの作家ではない。
すなわちこの方法論は
反リアリズムの方法論であり、
久保田戯曲の最も大事な特質は
この反リアリズムにある。
だからこそ現代において
久保田戯曲は重要なのである。
…………
《空間に言葉を刻む》
この言葉は私は
胸に刻んでおきたい!
その言葉を想うだけでも
ワクワクしてきます。
私は劇団四季に在籍中は、
演出の浅利先生に
『感情はいらない。
意味だけで喋れ!』
とよ~く叱られていました。
俳優は自意識過剰な生き物ゆえ
感情で言葉をまぶしたくなるもの、
意味だけで話すのは
本当に難しい。。
時にはそれが
心身の不一致を産んで
苦しさを覚えたものでした。
でも今回は、
息と音とリズムで台詞を
作っていく。
矛盾するようだけど、
構築を理解するからこそ
それらが成り立ってくる事も
よく理解できました。
音やリズムや息遣いで
十分に情感はにじみ出て来るもの
なのです。
始めはとても
読めたものではなかった
久保田戯曲の台詞。
もっともっと
知りたくなりました~‼️
いま万太郎戯曲を私達に
教えて下さっているのは
演出家の中村哮夫先生。
先生は中学年の頃から
俳句を詠んでおられて、
久保田万太郎は
先生にとっては俳句の師匠。
中村先生はその後
東宝で黒澤明の助監督になり、
舞台の演出も沢山なさりました。
『ラ・マンチャ』『風と共に去りぬ』
『王様と私』『ゾルバ』等など。
私のデビュー作
『ファンタスティックス』で
私をヒロインに選んで下さったから、
私は今もこうして芝居と
関わって生きています。
感謝しかありません…✨